ここ数か月間は、数回の取材を受ける機会に恵まれました。昨日2月19日は動画撮影の取材がありました。画像の本鬼毛9玉長柄箒を作りました。棕櫚箒のことを知っていただくきっかけになれば、という思いから、最近は無理なお話でなければ出来るだけお受けしています。
取材は苦手ですし、それほど特別な仕事をしているとは思いません。せっかく取材に来ていただいても面白くないのではとも思います。でもこの仕事は絶滅危惧種の生き物の境遇に似たところもあり、長い歴史がありながら、目の前でなくなり忘れ去られようとしている日本文化のひとつだと感じていて、時々取り上げていただけるのは本当に有り難い事だと思います。
工房や製作風景の撮影は普段通り仕事をするだけなので大丈夫ですが、前もって質問内容を知らされないインタビューが苦手です。質問内容が理解できない場合も多く、お恥ずかしい限りです。取材の結果はどうであれ何事も経験・勉強・自分を成長させてくれるはず、と前向きに考えるようにしています。
昨日の取材では「抽象的な質問ですが、伝統工芸といわれる仕事をしているあなたにとって”伝統”とは何ですか?」という質問に、簡潔な言葉で即答する事が出来ませんでした。棕櫚箒に関する「伝統」は自分の中では常に大切にしているし確かな答えがあると感じているのですが、うまく言葉に出来ませんでした。取材後もしばらく答えを考えていました。
「伝統」という言葉が持つイメージが強すぎるのかもしれません。偉そうで古臭くて自由がなくて嫌いだと拒否反応を示すひともいるでしょうし、決められた型通りに作るだけの、変化や進化のないつまらない仕事だ、と思うひともいるでしょう。
私も若い頃は最先端の技術や仕事に憧れた時期もありますし、今でもそういった仕事を見て凄いなと思います。
その一方で、手工芸の世界では昔の方が技術力が高くて、現代の職人ではとても昔と同じ物は再現できないなんて話を聞くと、現代人として悔しく残念に思います。また、師匠が晩年80代で現役の職人だったことや、私が女性で、たった5年間の修業で独立を許されたことから、伝統工芸といっても棕櫚箒は簡単な仕事だと思われることもあります。
伝統工芸といわれる仕事に転職した「自分にとっての伝統とは」の答えは今のところ2つになりました。
ひとつは、伝統を受け継ぐ箒職人になることは、それまでの自分とは違う新しい自分になる(生まれ変わる・自分を一から作り直す)ことだったと思いました。それは特別なことではなく、どんな仕事でも就職や転職をすれば多かれ少なかれ同じだと思います。私は代々の職人家系の跡取りでも血縁者でも地元出身でもなく、一般職から職人への転職なので余計にそう感じたのかもしれません。
弟子の仕事は部活動の基礎練習と似ていて、自分の手や体が道具として役立つように、師匠を真似て早く正確に、原料はよい部分を最大限生かすよう無駄なく、と細心の注意を払い失敗しながら何度も反復していきます。
それまでのパソコンや機械などを使う仕事と比べ、箒作りは自分の手・体・頭で物事を記憶し、体が道具として正確に動くように鍛えていくという点が違っていました。主に機械を使う仕事と比べ、直接自分の手で触って作業しますので、製品と自分の関係がより近く、感覚は生々しく、なかなか思うようには出来ない難しさがあり、それは自分にとっては新鮮で面白く感じられました。
私は子どもの頃から少し手先が器用というだけが取りえで、大学はデザイン工芸に進んだので、そうではないひとに比べて基礎の勉強をしているし、女性としては体力もあり力も強い方なので箒職人に向いているのではないか、と弟子入りするまではうぬぼれていました。弟子入り初日の最初の数分間で、それはまったく根拠のない自信であり、それまでの経験は何の役にも立たないし通用しないと思い知りました。
師匠の弟子になるということは、それまでのキャリアや学んだことや経験、自分の意見や個性も一旦は脇に置いて忘れておいて、棕櫚箒に関して自分は何も出来ない人間だということを受け入れることが重要なスタート地点だったように思います。師匠からは、師匠の箒と区別がつかないものを作るよう求められますので、そのためには私個人の手のクセが出ていては話にならず、自分の個性や浅はかな考えや思い付きは邪魔にしかなりませんでした。
もうひとつの「伝統とは」の答えは、自分ひとりの人生だけでは得られなかったであろう棕櫚箒に関する膨大な情報(長い年月に数えきれない先人達により蓄積された知恵・知識・経験・技術など、文献だけでは後世に伝えにくく、独学で習得するのは困難か時間のかかる内容を含む)を数年間という短期間で効率よく学び、さらに継続し発展させていくために出来上がった人類の知恵・システムなんだ、と思いました。
伝統工芸だけが特殊なのではなく、「○○師(医師、庭師など)」「○○士(弁護士、建築士など)」とつく専門職は、いずれもその職業に就くための勉強やシステムは似たところがあるように思います。
棕櫚箒が作られる前から、箒の役割をする道具は数百年か数千年以上かもしれない年月ずっと使われてきたはずで、箒が1本もない家庭が増えたのはここ数十年の話です。
私が継承した棕櫚箒の原型は、長く日本文化をリードしてきた京都が発祥の地といわれ、その製作技術が江戸時代に和歌山など各地へ広まったと考えられています。残念ながら本場の京都にはもう棕櫚箒職人がいなくなってしまったそうですが、今でも江戸時代の京都の技法や形が和歌山の棕櫚箒の中に色濃く残ったまま伝わっています。
江戸時代以降だけに限定して考えても、数えきれない人々によって積み上げられてきた経験・失敗・ノウハウが途切れることなく伝わり、それは師匠から継承した技術の中にもあり、製作するうえで土台や芯になり、新しい箒を考える際や迷った時には答えやヒントになり導いてくれる、確かな根拠になるものです。
私は江戸時代の徒弟制度・丁稚奉公に近い形態で毎日師匠の仕事を見ながら仕事を覚えました。
師匠は技術を口で教えるということはなく、私が作ったものに対しては厳しく駄目出ししてもっと研究しろと言いますが、教科書やマニュアルはなく、メモをとることも許されませんでした。メモをとったり見ていては仕事が遅くなるので、それよりも繰り返し手を動かして覚えろ、ということでした。
師匠がものすごい速さで何気なくしている事でも、細部に渡りこうあるべきといった決まり事があり、それが出来なければ同じような形の箒にならないので、シンプルな構造の中で何て多くの事を考えてやっているんだろう、師匠や手本となる箒を見て自分で考えて手の感覚で覚えなければならない事が多すぎて、慣れるまでは頭の中がパンパンで大変でした。
後になってみれば、それは常に考えながら仕事をするということを身につけるために重要なことでした。
伝統といっても、昔からこうなっているから、と型通りに真似るだけではなく、どうしてそうするのかを理解してやっていれば、毎日同じような仕事をしているようでも、常に考えながら微調整や修正を繰り返し少しずつ良い方向に向かうことが出来たり、より現代にふさわしい物が出来るかも、といった可能性や未来が生まれるのだと思います。先人達もそうしてきたから今私も棕櫚箒を作ることが出来ていると思います。
弟子入りしてすぐに、原料の上質な棕櫚がもう40年余りも日本では採れず輸入に頼っていると知った時は大変なショックでしたが、それでも師匠の技術を習得したいという気持ちは変わりませんでした。
現在は色々な事情や困難がありますが、技術がきちんと継承され残っていれば、もしいつか上質な棕櫚原料が採れた時に、その原料にふさわしい棕櫚箒に加工することが出来ると思いました。いつか素晴らしい原料が採れたとしても、肝心の箒に加工する技術が途絶えていたら、その原料の良さを生かした箒を作ることが出来ません。途絶えることなく技術を継承する事が大切だと思います。
生き物も、長い歴史の中で数えきれない命がずっとつながってきたから今生きているわけで、「伝統」もどこかそれと似ているような感じがしています。