【棕櫚箒】棕櫚皮9玉長柄箒の穂先を鉄製の熊手で捌き(さばき)磨く工程と、皮5玉手箒・特選の玉(束)作り。画像2枚目は熊手をかけ終えた後、本鬼毛製の仕上ブラシで磨いて繊維屑や棕櫚粉を取り除くと共に、毛流れを真っ直ぐ整えているところです。

製作風景-【棕櫚箒】棕櫚皮長柄箒
製作風景-【棕櫚箒】棕櫚皮長柄箒
製作風景-【棕櫚箒】棕櫚皮長柄箒
製作風景-【棕櫚箒】棕櫚皮長柄箒

続いて【棕櫚箒】棕櫚皮5玉手箒・特選の玉(束)作り。意匠は蝋引き麻糸巻き(黒褐色)。

製作風景-【棕櫚箒】皮手箒
製作風景-【棕櫚箒】皮手箒

以下、10月23日から8回に渡り掲載してきた地元に伝わる「しゅろの歌」について補足です。
先日、昭和初期頃の棕櫚の需要の高まりと価格高騰により終戦(1945年)前後に棕櫚皮の乱獲があり、棕櫚の木は弱り、その後の棕櫚皮や葉の質の低下と収穫量の減少につながった、と書きましたが、今となっては「棕櫚バブル」と形容したくなるような急激な棕櫚の需要拡大と減少・価格変動をもたらした、戦争にまつわるそのあたりの事情をもう少し詳しくご紹介します。

日清戦争(1894-1895年)・日露戦争(1904-1905年)の時から、棕櫚縄は弾薬箱の手綱や荷造りロープとして使われ、軍用品として使われたことで棕櫚皮・棕櫚縄の需要は飛躍的に伸び、棕櫚木の栽培数も増加していきました。棕櫚縄は一般にも漁業のトロ箱など荷箱の手綱として普及しました。
棕櫚は昭和13年(1938年)には軍需品として大量に買い上げられ、昭和17年(1942年)には棕櫚が戦時統制品に指定され、棕櫚皮や棕櫚縄は軍の厳しい監視のもと野上電気鉄道で運ばれました(野上電気鉄道は元は野上軽便鉄道といい、主に棕櫚皮や棕櫚縄など棕櫚の産物を運搬するために大正5年・1916年頃に引かれた鉄道。1994年廃止)。
当時を知る近隣の方々からは、値が良かったので翌年以降の収穫を案じながらも「生活のために仕方なく多く収穫して売った」という話や「軍(日本軍)の命令で、棕櫚皮をとにかく採れるだけ採って送れということで無理に収穫して出荷した」という話を聞いています。

戦時中の野上電気鉄道は軍人が見張っていて、地元民といえど一般の人は近づけなかったそうですが、師匠の友人は積み荷が何なのか知りたくて、好奇心から戦時中に一人でこっそり見に行ったことがあるそうです。「皆、荷物は当然棕櫚縄だと思っていたけど、違った。全部は見られなかったけど覗いた貨車の中は全部、天井までびっしり隙間もないほどに棕櫚皮でいっぱいだった。棕櫚縄ならともかく、大量の棕櫚皮なんて軍が何に使ったのかさっぱり分からない」と話していました。それを聞いた師匠も首をかしげて「棕櫚縄が必要なら、加工地であるここで先に縄にして積むのが当然。よそに大規模な縄の加工場はなかったはずだし、皮のままなんて何に使ったんだろう?」と不思議がっていました。
私も不思議に思っていたところ、この数年後に思いがけない人から、その時運ばれた大量の棕櫚皮を使ったのかもしれない戦艦大和にまつわる話を聞きました。長くなりましたので、それについてはまたの機会に。