江戸時代の棕櫚箒-御煤掃/千代田之大奥/楊洲周延画/明治28年=1895年
江戸時代の棕櫚箒-御煤掃/千代田之大奥/楊洲周延画/明治28年=1895年

江戸時代の棕櫚箒をご紹介します。江戸の上流社会で使われていた掃除道具が描かれている数少ない絵、江戸城本丸・大奥の「御煤掃」の絵の中に棕櫚箒が描かれています。

江戸時代の棕櫚箒-御煤掃/千代田之大奥/楊洲周延画/明治28年=1895年
江戸時代の棕櫚箒-御煤掃/千代田之大奥/楊洲周延画/明治28年=1895年

一番大きく細部まで描かれている棕櫚箒を拡大します。残念ながらやや簡略化して描かれているため、鬼毛箒なのか棕櫚皮箒なのかははっきりしませんが、穂先は現在の棕櫚皮箒よりも深く長くほぐれた繊維状になっているようです。穂の長さに対し幅が狭く、結束部分を見ると5玉か7玉の小振りな長柄箒のようです。

江戸時代の棕櫚箒-御煤掃/千代田之大奥/楊洲周延画/明治28年=1895年
江戸時代の棕櫚箒-御煤掃/千代田之大奥/楊洲周延画/明治28年=1895年

さらに拡大して、ほうきの結束部分を見てみます。5玉か7玉かはっきりしないのは、白矢印で印した部分の数、棕櫚束(玉)を縛った箇所が5つあるので、ここだけ見ると「5玉長柄箒」なのですが、灰色の矢印で印した「足巻き」と思われる細かい横線の入った棕櫚の数が左手前に3本、奥に少なくとも2本描かれており、長柄箒は左右対称形なので足巻きされた部分は最大計6箇所ある、となると中央の竹柄の付いた玉と合わせて「7玉長柄箒」ということになります。足巻きは棕櫚束(玉)の端を細かく縛って作りますので、中央の玉を除き玉数と足巻きの数は一致するのが普通です。よく見ると完全な左右対称には描かれていません。もう少しだけ細かく描写されていればもっと色んなことが分かるのですが、惜しいです。

江戸時代の棕櫚箒-御煤掃/千代田之大奥/楊洲周延画/明治28年=1895年
江戸時代の棕櫚箒-御煤掃/千代田之大奥/楊洲周延画/明治28年=1895年

背後に小さく描かれた、同じ型と思われる棕櫚箒。もっと簡略化されていますが、こちらだけ見ると玉数は7つに見え、5玉にはとても見えない形をしています。このことから、絵の中の棕櫚箒は5玉よりも7玉長柄箒の可能性が高いのではと思います。

西日本では昭和まで棕櫚箒が一般的だったのと異なり、江戸庶民の間では1840年頃以降は棕櫚箒に変わってホウキモロコシの箒が大流行し一般的になっていましたので、関東方面の1840年以後の絵に棕櫚箒はほぼ登場しません。そんな時代の中、大奥の美しい女性たちが棕櫚箒を手にしていたというのは、京都の上流社会の生活様式や文化が江戸城に持ち込まれていた影響なのかもしれません。

といっても「千代田之大奥」が出版されたのは明治28年(1895年)のことなので、江戸時代が終わって30年近くが経過しています。秘密の世界だった大奥を描いたこの本は大ヒットしたそうです。描いた楊洲周延さんは天保9年(1838年)生まれなので、出版の明治28年(1895年)当時は57歳ほど、明治元年(1868年)を27歳頃に迎えた人です。
江戸開城するまでは大奥内部の事は秘密にしなければならなかったそうですが、江戸開城後は大奥で働いていた大勢の女性たちも城を出てそれぞれの生活を営みましたから、年月が経つと中には大奥で働いていた当時の様子を語った女性もいただろうと思います。
出版が明治28年とはいえ描かれている内容の信ぴょう性は高いのではないか、少なくとも江戸城で棕櫚箒を使っていたのは間違いないのではないか、と思います。

「御煤掃」は現在の大掃除の元になったといわれるお清めの儀式です。年の瀬(旧暦12月13日)に家中の一年間の煤(すす)や穢れ(けがれ)を払い清め、新しい年神様を元日にお迎えする準備をしたもので、平安時代から続くそうです。神事なので清掃に使う道具は何でもよいわけではなかったと考えられます。「千代田之大奥」に限らず煤払いの絵によく描かれているのは、青々とした葉を付けた長い笹「煤竹(すすだけ)」、棕櫚箒、はたきです。煤竹は煤払いの時期に伐採したばかりの新鮮な笹で、天井など高い所の煤や蜘蛛の巣を払い清めるのに使います。煤竹や天井箒は現代でも年末頃にテレビで、寺社や仏像などの煤払いに使われている様子が放映されますので、皆さまご存知かと思います。

御煤掃(1)(部分/3枚1組のうちの1枚)
出典:千代田之大奥(千代田の大奥)/
福田初次郎 出版/明治28年(1895年)/
楊洲周延(ようしゅう ちかのぶ) 画
国立国会図書館/貴重書データベース(錦絵) より
http://dl.ndl.go.jp/titleThumb/info:ndljp/pid/1302681